創業者の軌跡

創業者 原 章
枝葉も茂りそして幹も逞しく太くなっていくように、弊社もより一層お客様のお役に立つため、新たな感動を求めて、信頼を大切に誠実な思いを形に表していきます。
今後も起業の忠想の精神と青雲の志は、一時も忘れず歩んでまいります。
どうぞ、温かなご指導を宜しくお願い申し上げます。

思いを形に
第二次世界大戦から12年が過ぎ、世相は騒然としながらも高度成長を予測し躍動を始めていました。
地方新聞記者を辞し起業を決意したのは21才の時でした。
小学生で終戦を迎え、教科書は文字だけのワラ半紙だった。
将来「カラー印刷をやろう」幼心の淡い、その思いを形に願いの種の開花を祈りました。
創業 飛び立つエナジー
上野の(株)北村商店との出会いが起業の始まりとなりました。機材と技術指導を頼み込んだのです。
あまりにも若過ぎるのに怪訝にもされましたが、その熱意をくんでいただくことができました。
運命がスタートした瞬間の身震いは今も昨日のことのように思い出されます。
最初の社名は『三洋写真製版社』でした。大海を越えて飛び立つエナジーの原点です。
湿版、そしてフィルムへ
卵白をコロジオン状にしてガラス面に引き、硝酸銀液につけて撮影、感版は手作り現像、補力、減力、定着等劇薬で爪は黒くぼろぼろに欠けました。
フィルムは東京有楽町(現コダック)で研修し、自前の技術を積み重ねて、お客様は長野県南部全域に及びました。

歴史を刻んだ社名
『三洋写研株式会社』
提案受注型への脱皮を試み、当時最先端の写真植字機をいち早く導入し、文字を組み込んだ完全原稿を提案、企画デザイン部を併設、リクルート誌「伊那タッチ」を刊行しました。
『三洋写真印刷工業株式会社』
当時、製版工程は間も無く各印刷所が内製化することが予測されました。お世話になった既存印刷所との競合をさけるため、当社は敢えて未知の領域であるグラビアに進出したのです。
グラビア製版の実験から新工場建設、多色輪転機の導入、ドライラミネート、スリット、製袋と一瀉千里、急な坂道を駆け上がるような10年の日々でした。
『三洋グラビア株式会社』
グラビアが主力事業に成長し、一貫生産体制を整え顧客筋も大きく拡大致しました。
この時期に現社名への変更を図り正に”選択と集中”の展開を始めたのです。
原 章の歩み
1935年(昭和10年) 00歳 |
伊那市本町にて文明、ヒサ子の次男として誕生 |
1954年(昭和29年) 18歳 |
上伊那農業高等学校卒業 |
1955年(昭和30年) 19歳 |
伊那毎日新聞社入社 |
1957年(昭和32年) 21歳 |
伊那市本町にて三洋写真製版所として凸版制作で起業 |
1959年(昭和34年) 23歳 |
最愛の妻 節子 と結婚 |
1961年(昭和36年) 25歳 |
三洋写研株式会社として凸版、平版、凹版の製版業で法人化 |
『孤軍奮闘の時代』 | |
1967年(昭和42年) 31歳 |
三洋写真印刷工業株式会社としてグラビア印刷事業に特化 |
『一瀉千里の時代』 10年で一貫生産体制を全国に先駆けて構築 |
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1979年(昭和54年) 44歳 |
伊那市市議会議員 二期8年で勇退 |
1983年(昭和58年) 47歳 |
伊那ライオンズクラブ会長 同334-E地区ゾーンチェアマン |
1992年(平成04年) 56歳 |
三洋グラビア株式会社として事業継承開始 |
1997年(平成09年) 61歳 |
三洋グラビア株式会社代表取締役会長に就任 |
2001年(平成13年) 65歳 |
伊那商工会議所常議員就任(平成27年退任) |
『絵画の時代』 | |
2006年(平成18年) 70歳 |
一水会展 第68回入選「梨、雄花取る女」 |
2009年(平成21年) 73歳 |
一水会展 第71回入選「鋸岳初冠雪」(南ア) |
2011年(平成23年) 75歳 |
一水会展 第73回入選「雪の山門」(羽広山仲仙寺) |
2012年(平成24年) 76歳 |
一水会展 第74回入選「雨後」(平沢) |
2013年(平成25年) 77歳 |
一水会展 第75回入選「早春の天龍河岸」 |
2015年(平成27年) 79歳 |
三洋グラビア株式会社 相談役就任 |
2024年(令和06年) 89歳 |
永 眠 |
